2017年11月17日金曜日

大人になるロトっ子

週末だというのに体調がよろしくないいつものやつ。気分はとってもいいだけに残念です(普通は体調がよくなきゃ気分もよくないのですがそこらへんは気持ちの問題で)
前回の投稿の際に書こうかなと思っていたけど考察やらが入って長くなりそうなので分けることにしたものを今日はつらつら…

DQ2の時代になると、1の時代アレフガルドで栄えていた町々はすべて滅びたのか縮小化してしまったのかフィールド上に形をとどめていない現象。なかなか印象に残るものだと思います。
「かつてメルキドと呼ばれた街の」という台詞からはメルキドが町名を変えつつ存続しているのか、完全に滅び去ってしまった廃墟なのかは完全には推測できません)

そしてDQ2時代の世界は1よりも活気というか、人々の対外的なエネルギーを感じる。特に顕著なのが音楽の違い。考慮することといえば、1の時代はちょうど竜王がひかりのたまを奪い去ってしまい本来あるべき光が失われていることくらい…?
「街の人々」は穏やかで心休まる雰囲気ですが、「街の賑わい」はお祭りかと見紛うくらい活気があって、100年の間に近代化だけでなく多くの街の発展があったんだなと思わされます。
ローレシア大陸の国家・街(ローレシア・サマルトリア・リリザ)はおそらくどこも成立から100年経っていないのは確実ですが、他の大陸の町々はどうなのでしょう?ムーンブルクやベラヌールは小説版などの媒体では1の時代からすでに存在していて、1の冒険の中では描かれなかっただけという形になっていますが…

「街の賑わい」には街そのものの活気だけでなく、退屈で代わり映えしない城の生活とはまるで違う環境に身を置くロトっ子3人のわくわくやらも表しているような気がするのです。「王城」のどこか寂しいような、何かをこらえた風な音色もそう聞こえてしまう…(あくまで自分の中での感想で、すぎやんがそのような意図で作曲したのかどうかとは関係ないです)
ロト3国とはまるで環境の違うデルコンダルやラダトームでも流れる曲自体は一緒ですが、あの3人がそもそも城というロケーション自体にそういう印象を抱いているのかな…?とも。
(「ドラクエシリーズの街や城の曲はすべてプレイヤーの動かしている主人公や仲間たちがその場所に対して抱く印象を音色に落とし込んだもの」だという解釈でもある)

そういう風に見てしまうと、「果てしなき世界」やら「街の賑わい」やら「海原を行く」やら優しい音楽と厳しい敵に囲まれて送ってきた旅を終えて帰ってくるのが「王城」の流れるあのお城で、待っているものは王位襲名…というのはそりゃゲーム的にはハッピーエンドなんだろうけど、多感な少年少女の内面的にはどうなんだろう?と思わずにいられない。
(自分も少年少女だったくせにプレイ当時何も感じなかったの?と言えますが…当時はクリアできなかったのでそんな展開知らなかったという悲しみ。邪神の像一生許さない

きっともっと旅していたいんじゃないかな…旅先でいろんな人に助けられたりして、そんな人たちともう自由に再会できる身分じゃなくなるとか…
一応他のシリーズのキャラにも同じようなことは言えます。故郷に帰れない上「諦めてこの土地で子供作れ」とか言われた勇者ロトや、自分の功績を誰よりも喜び称えてくれた温かい村人たちと妹と仲間に永遠に会えなくなる上に、本当の自分と分離した自分との人格や記憶に齟齬が生じたままの6主に比べればマシなのかもしれない(考えてみればロトシリーズも天空シリーズも伝説の始まりとなった二人は何か大きなものを失ってますね。何の因果なのか)

また何が言いたいのかよくわからなくなってきた…とにかくドラクエのあらゆる世界観が好き。
今ここでちょっと触れた6主も色々ゲームをプレイしてて感じたことがいっぱいあるのでそのうち書けたらいいな。生まれて初めて触れたドラクエ作品なので話せることならいっぱいある。

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